鹽谷温博士『元曲選』全訳稿および関連資料デジタルアーカイブ
このコレクションについて
東京帝国大学名誉教授鹽谷温博士(1878~1962)による『元曲選』全訳稿、およびその関連資料を、高精細画像として提供するデジタルアーカイブです。2022年度東京大学デジタルアーカイブズ構築事業による成果物です。
『元曲選』とは
『元曲選』は明の臧懋循(?~1620前後)の編で、全100篇の雑劇を集めたアンソロジーです。雑劇というのは、金代の終わり頃に現在の北京市や河北省の辺りで興り、元代に隆盛を極めた演劇ジャンルで、歌曲と台詞からなる歌劇です。1編の雑劇は4つの組曲で構成されるのが原則で、組曲ひとつ分の長さも概ね決まっているため、基本的に短篇です。歌うのは1人の主役だけに限るという縛りがあって、他の出演者は台詞はあっても歌は担当しませんでした。 歌われたのは当時流行していた「曲」という種類の韻文で、この「曲」は元代に流行したため、特に「元曲」とも呼ばれます。そして、「元曲」は「曲」を指すだけではなく、雑劇それ自体の別称としても定着しました。この雑劇の傑作選として100編を集め、読み物として編集した上で、明も終わりに近づいた万暦43年(1616)に刊行されたのが『元曲選』です。
鹽谷温博士の『元曲選』全訳
鹽谷温博士は、中国では伝来が途絶えていた元代の「全相平話五種」や明末の「三言二拍」を日本で再発見したことなどで知られる、中国古典戯曲・小説研究の世界的先駆者の一人です。鹽谷博士は大正14年(1925)から財団法人啓明会の研究資金を得て、昭和7年(1932)夏に『元曲選』の全訳を完成していました。しかし、公刊されたのはそのうちごく一部に止まり、大部分は稿本のまま長い間眠っていました。令和2年(2019)に、博士の令孫鹽谷健先生が、その『鹽谷温博士『元曲選』全訳稿』(21帙100冊)、並びに翻訳の底本として用いられた商務印書館涵芬楼影印本『元曲選』(21帙100冊。全体を通して断句と訓点が施されています)、そしてこの翻訳事業に関連する書簡や写真、新聞記事の切り抜きなどの資料を、一括して東洋文化研究所にご寄贈くださいました。本デジタルアーカイブでは、鹽谷健先生からご寄贈いただいた諸資料に、東洋文化研究所がもともと所蔵していた博古堂蔵板万暦43年[1615]序刊本『元曲選』(『元曲選』の初版の後刷り本で、商務印書館涵芬楼影印本の底本と同版です)を加えて、全ページを高精細画像として提供いたします。
『元曲選』の邦訳について
元代の雑劇はテキストが現存する範囲では中国最古の本格的な演劇で、白話文(中国語の口語体の文章)で書かれた文学作品としても初期のものであるため、中国文学史を語る上では唐代の詩や宋代の詞、更には明代・清代の白話小説と並んで、時代を代表するジャンルとして重視されています。ところが、唐詩や明清の白話小説が盛んに翻訳出版されているのに対して、元雑劇の邦訳はこれまであまり進んでいませんでした。後藤裕也、西川芳樹、林雅清ほか編訳『中国古典名劇選』(東方書店、2016~、2023年現在既刊3冊)シリーズが全篇の現代語訳を目指して進行中ですが、完結までにはまだ時間がかかるようです。本アーカイブで公開する鹽谷博士の全訳稿は、当時主流だった訓読調の文体によるもの(いわゆる「国訳」)なので、今日の眼から見ると現代語訳とはかなり趣が異なるかもしれませんが、先駆的業績として大きな意味を持つものであることは間違いありません。本アーカイブの公開が今後の研究に資することを切に願います。